1日目:就寝

鍛錬(魔術回路)

 本編初の自殺未遂、もとい、魔術の鍛錬。

 ここは「魔術」なるものの設定開示の意味合いも強く、プロローグで凛が「魔術の行使とは血管に血の代わりに焼けた鉛を流すようなもの」としたのに引き続き、「魔術行使とはどのような身体感覚なのか」をつぶさに描写した箇所でもあります。
 士郎の場合、回路を「作る」(これは彼の勘違いに由来するのですが)ことは「背骨に鉄の火箸を突き刺していく」感覚。うっかり想像してしまうとかなり気持ち悪くなるところです。こう、神経に直に来る感じが。
 集中を一歩乱せば、作り上げた魔術回路が肉体を浸蝕し、体内がずたずたになって(内臓の殆どが壊れるそうな)士郎は死亡する。実際、この晩も彼は早速(早速……)生死の綱渡りをやらかしているのですが、これを八年毎晩かかさず繰り返して生きていたのが逆に凄い。このふつーーに茶飯事的に死にかけやがられる感覚、むしろ「八年これで死ななかったってどんだけの確率だ……」と思わされます。並行世界を観測したら、聖杯戦争前に衛宮士郎が土蔵で変死を遂げている世界線が無数にあるのではないかと思われる。
 その、これはHFの話になりますが、士郎がやっているのがどんな滅茶苦茶な無茶かを理解していた桜は毎朝、「先輩、起きてますか?」ならぬ「先輩、生きてますか?」の心境だったのではと思われ、心労が忍ばれます……。

 とはいえ、「失敗の対価は死(難度によって確率の高低があるだけ)」というのは、魔術全般の性質。極端を言えば、灯を付けるだけでもうっかりすれば死亡するのが魔術だということで、この辺りの世界観の制約のバランス(魔術がなんでもありにならないところ)を序盤で示されたのは、作品への好感度アップに繋がりました。

 魔術師にとって一番初めの覚悟とは、死を容認することだ。

Fate stay/night 共通ルート1/31

 魔術師の前提にして、実際に容認することは生物として不可能なのでは、と思われる容認。これを本当にしてしまったのが士郎であり、そんな彼だからこの二日後の襲撃時、命の遣り取りをしたことがなかった人間としてはある種異様なまでのスピードで覚悟を決め、同時に、そんな彼が他人の傷にはああいう対応になる。この辺りが、衛宮士郎という人間の肝になるところです。

 士郎の集中の姿勢は結跏趺坐。他にも、意識のコントロール法全般、どこか東洋思想が意識されている感じがあるのがこの人で、何が由来なのかなと想像するところです。
 衛宮の屋敷自体が「外に開いた」東洋思想的な建物ですし、SNで描かれた切嗣もそのイメージに合致する人物像だったため、ゲームプレイ時は何も思わなかったのですが、Zero嗣さんのキャラクターと来歴でいくなら、この特性が切嗣由来なのかは疑問が残る。

 その意味はしらない。
 ただ、衛宮士郎は、衛宮切嗣のように誰かを助けて回る、正義の味方にならなくてはいけないだけ。

 恥ずかしいとも、無理だとも思わない。
 それは絶対に決まっている事だ。衛宮士郎は、衛宮切嗣の後を継ぐと。

Fate stay/night 共通ルート1/31

 と、この辺りから彼の骨子を貫くものが大変不穏なのは匂わされているのですが、初見ならなんとなく読み飛ばせるような書きぶりなのが恐ろしい。
 注目すべきはこれでしょう。

 正義の味方っていうのが何者なのかは分からない。

Fate stay/night 共通ルート1/31

 士郎は本作冒頭において、生き延びてしまった自分は何がなんでも人の助けとなる何か、「正義の味方」という概念にならねばならないという強迫観念に近いものを抱いているんですが、それがなんなのかは分からない。
 そして、実際の所そこに正解はなく、だからこそ葛藤が発生し、殊にUBWなどは正にそれを焦点とした物語になる。

 だから、士郎の大事な特性として、「自分は正義の味方である」とは名乗らない、という点があげられます。

 名乗るわけがないんですよ。だって、士郎は、それがどんなものだか分からないんですから。なんだか分からないんだから、自分が実際に「それ」なのかも当然判定できない。むしろ、士郎が、正義の味方の定義付けを完了し、自分がそれに該当すると判じたのなら、それで彼の十代は、Fateという物語は完了できる。
 ただ、「正義の味方」という単語は、「それ自体が論点である」という用法よりも、「俺が正義の味方だ」という使われ方をすることが多く、どうもそれだけに、この単語選択は彼を読みづらくしたような印象も。