1日目:放課後

 放課後の行動は、生徒会手伝い OR アルバイトに分岐。
 どちらに転んでも、士郎は「お前の人助けは度を越している」と諭されて、忠告の内容は理解しつつも「自分は『無理』はしてないから問題ないぞ」と考えます。
 ……この人の場合、「無理」の基準が大概おかしい、というのはこの日の夜には早速明るみにでるわけですが。

高嶺の花

[生徒会の手伝いをしよう。]を選択

 士郎の中で、助力の対価が「助力したこと自体」という捻れが発生しているのが顕著なのはこちらの選択肢。「助けるにも少しは相手を選べ」という一成の諫言に、士郎が「? そんなに節操ないか、俺」と答えるのにちょっと目をひかれます。
 人助けに対して「節操なし」という言い回しは、まぁあまり一般的ではない。勿論菌糸類先生の文のクセという可能性も大いにありますが、この直前のシーン「学校~放課後/日常(Ⅰ)」で、士郎が慎二に「君、なんていうか節操ないからさ」と絡まれていたのを思い出しても面白い。慎二の嫌みは解さなかったのに、話の内容自体は極真面目に覚えてたのかなと思うと、なんというかそれは凄く士郎らしいな、と。

 この後、士郎が「いまいち判断がつかないが、つまり一成は自分を心配しているらしい」と理解する流れは学校の流れの繰り返し。
 頑固というか、本人の中では「できないことはしないからOK(※ただし士郎の「できない」の基準はおかしい)」っていう理屈がきっちり成立してる。だから、忠告を聞く耳持たないのではなく、「聞いた上で」問題無いという判断になっちゃってるのが逆に厄介です。

ブラウニーチョコケーキ

[アルバイトに行こう。]を選択

 愛嬌あるタイトルの、酒屋コペンハーゲンバイトシーン。昨今すっかりブラウニー呼びが定着した感のある士郎ですが、本編中で士郎がブラウニー呼びされるのは実はここだけだったり。
 重労働過ぎてバイトが皆サボってしまった棚卸しに、士郎は直接頼まれた訳でもないのに律儀に顔を出し、最低五人がかりと言われた仕事を一人で片してしまいます。

 ここで、「俺がやらねば」という意識が特にないのが面白いところ。士郎的にはやれることを黙黙とやってただけで、気がついたら終わってた、という描写です。
 作中、衛宮士郎という人物の未来は「ひたすら目の前の不幸に対処していたら」その「目の前」が拡大しすぎて最終的に偉業を為してしまうわけで、この人の在り方はこんなところからぶれていない。

 また、このシーン、棚卸しのボーナス報酬は戸惑いながらも素直に受け取っているのも面白いポイントかもしれません。士郎は無償で働くイメージが強いですが、正当な報酬を固辞するようなこともないんですね。
 逆説的に、これは士郎が、「助力できたという事実自体を対価にしてしまう人」だからだ、と言えるでしょうか。彼の関心は「助力できたか否か」であって、「自分がボランティアをしたか」ではない。彼が仮に「『無償で頑張った俺』という自意識」のために働いていたなら、この手のボーナスは彼にとってむしろマイナスでしょうが、実際はそうではない。だから士郎は、報酬のために努力するわけではないけど、正当な報酬を断る理由も持っていない。

 さて、五年前、切嗣が亡くなって働き出そうとした士郎を雇ってくれたのはこのお店だけだったとのこと。そりゃそうだろう当時士郎は12才。中学上がりたてくらいの士郎が、あのやたら頑固一徹な目力で「雇って下さい」と言いに来るシーンが目に浮かぶようです。

 こちらの選択肢でも、士郎はやっぱり「自分は無茶な注文は受けていない」と言うわけですが、ネコさん曰く「自分と父が風邪で寝込んだとき、店番を引き受けてくれた士郎も実は風邪を引いていた」とのこと。
 ところでこの後、HF6日目、士郎は「風邪なんて引いたの初めてだ」と独白するんですね。これは構成ミスなのか、というと、単に読んで字の如くなんじゃないかと思います。

 士郎は無茶だと思った頼みは引き受けない→店番を引き受けた時、士郎当人の主観では風邪じゃなかった

 ……事程左様に、士郎の主観は信じちゃいけない。その「主観を信じちゃいけない」人の一人称で描かれているところが、Fateの物凄く面白いところであり厄介なところだなぁと思います。