遠坂凛(I)
Fate stay/night 共通ルート2日目
逆恨みした慎二が遠坂に何かするのでは、という美綴情報を気にした士郎が、バイトの予定を押して道場まで確認に来るシーン。
プロローグによれば、2/1アーチャー召喚翌日の凛の行動は見回り。彼女が学校をサボりもといお休みしている旨、士郎は一成から知らされるわけですが、小ネタとしてはこのときの一成の台詞がちょっと面白い。 仇敵(遠坂)が絡めば彼もこんな口調になったりするらしい。
「へえ、誰がいないって?」
Fate stay/night 共通ルート2日目 柳洞一成の台詞より
「だーかーらー、誰がいないって?」
「するとも、あいつが風邪など引くものか。俺が見たところアイツは悪いヤツだ。外見に騙されるとパクッと食われるぞ、衛宮」
一成とのやりとりの後、舞台は新都に移動。思いの他早く到着した士郎はバイト開始時刻まで公園で休憩することを選び、物思いにふけるわけですが、ここが早くも序盤のキーポイント。「士郎の人となりを語るなら、ここを挙げないと始まらない」、彼を説明する上で擦り切れるほど引用されてきたフレーズがこのパートに目白押しです
今読むと、「物語が加速を始める前に、最初にきっちりここまで解説されていたんだな」という感慨と、「ここまで書かれても彼は長年『誤解を招きがちな主人公( UBWアニメビジュアルガイド150P 奈須先生インタビューより )』だったんだな」という感慨が等分にあります。
その重要パートの士郎の独白は、以下のように、衛宮士郎圧縮言語(やつらが様々な独自ニュアンスを圧縮しやがるせいで数多の語弊を生むあれやそれ)から始まります。まず「思い出す事はない」がくせ者です。
かつてここで起きた出来事を、思い出す事はない。
Fate/stay night共通ルート2日目
子供だったから覚えていないのだろうし、記憶できるほど簡単な光景でもなかった為だろう。
ここの「思い出す事はない」の印象等から「士郎には記憶がない」という思い込みが高じて、Fateルートのクライマックス「実は思い出を振り返ることを己に禁じていた士郎が、その古傷を言峰綺礼に開かれる」という下記シーンの内容をすっ飛ばす……というのが、Fateの落とし穴の一つです。
……ああ。おまえたちにはおよびもしないだろうけど、俺だって、それを夢見なかった事はない。
Fate/stay night Fateルート15日目
切嗣に引き取られたあと。
何度も何度も焼け野原に足を運んで、ずっと景色を眺めていた。
何もなくなった場所にいって、有りもしない玄関を開けて、誰もいない廊下を歩いて、姿のない母親に笑いかけた。
……あの日の前に戻れて。
何もかも悪い夢だったのだと、そう目が覚める日を待ち続けた。
「『女の子が』は、彼の人となりを表すものではなく、実はとんでもないイレギュラー」もそうですが、主人公本人が「初手でミスリードを仕込んでおいてドンデン返し」というミステリのような手法で描かれてるのが、Fateの難しさの一因でしょうか。
ただし、あくまで「書かれては」いるのです。提示された情報を読み手が脳で結合させる必要があるだけで。今読み返してみると、「読者、書き手に信用されてるなぁ」という感慨が強くあります。そういえば、奈須先生の座右の銘は「人類みな強大」でしたか。
ところで、「 子供だったから覚えていないのだろう」というのが士郎の独白前段ですが、その続きは以下です。
覚えているのは熱かった事と、息が出来なかった事。
Fate/stay night 共通ルート2日目
それと、誰かを助けようとして、誰かが死んでしまっていた事。
「どうして、そうなのかな」
例えば、焼け落ちる家から子供を助けようとした大人は、子供を助けるかわりに死んでしまった。
例えば、喉が焼けた人たちがいて、なけなしの水を一人に飲ませたら水はなくなって、他の人たちはみんな息絶えてしまった。
例えば、一刻も早く火事場から抜け出そうと一人で走り抜いて、抜き去っていった人たちは例外なく逃げられなかった。
それと、例えば。
何の関係もない誰かを助ける為に、自分を助けていたモノを与えてしまって力尽きてしまった人とか。
「 熱かった事」「息が出来なかった事」 「誰かを助けようとして、誰かが死んでしまっていた事」「『例えば』以下のその生々しい具体例」
これらは彼が覚えていて正に追想していることです。その状態をして彼は「思い出すことはない」としている。士郎語録における「思い出すことはない」とはこういうことで、この時点で「あ、つまり字面通りにとっちゃだめなヤツだな」とちゃんと書いてある。
そういうのは嫌だった。
Fate/stay night 共通ルート2日目
頑張った人が犠牲になるような出来事は頭にくる。
誰もが助かって、幸福で、笑いあえるような結末を望むのは欲張りなのか。
ただ普通に、穏やかに息がつける人たちが見たかっただけなのに、どうしてそんな事さえ、成し遂げられなかったのか。
(中略)
“士郎。誰かを救うという事は、誰かを助けないという事なんだ。いいかい、正義の味方に助けられるのはね、正義の味方が助けたモノだけなんだよ。当たり前の事だけど、これが正義の味方の定義なんだ”
この前日、共通ルート1日目冒頭、「十年前の回想」における士郎の「息もできないくせに、ただ、苦しいなあ、と。もうそんな言葉さえこぼせない人たちの代わりに、素直な気持ちを口にした」 という独白は、読み手の記憶にまだ新しい。 穏やかに息がつける人たちという言葉選びは、息をするという、ただそれだけのことができなかった黒焦げの彼の実感と呼応していて、切実さが迫ってくる。
ところでこの切嗣の正義の味方論、度々いろんなところで引用されるのでもはや切嗣の口癖だったかくらいの印象ですが、実は実際に口にしたのは一度切り。 「一度きり、けれど未だに強く残っている言葉を口にした」 とここで言われてるのでした。
そりゃあ分かる。
Fate/stay night 共通ルート2日目
言われてみれば当たり前だ。
ここに強盗と人質がいて、強盗は人質を殺すつもりでいるとする。
通常の方法では人質の大半は殺されてしまうだろう。
それを、人質全員を助ける、なんて奇跡みたいな手腕で解決したとしても、救われない存在は出てくるのだ。
つまり、人質を助けられてしまった強盗である。
これも引用頻出パート。「人質を助けられてしまった強盗」を「救われない存在」として士郎が捉えていることは、彼の思う「正義の味方」が「正義で悪を殴りに行くぞ」というテンプレート概念からかけ離れたなにかであることを、極めて端的に示しています。
正義の味方が助けるのは、助けると決めたモノだけ。
Fate/stay night 共通ルート2日目
だから全てを救うなんて事は、たとえ神様でも叶わない。
「……それが天災なら尚更だ。誰であろうと、全てを助けるなんて出来なかった」
十年前の火事はそういうモノだ。
今更、奇跡的に助けられた自分がどうこう言える話でもない。
「けど、イヤだ」
そういうのは、イヤだった。
初めから定員が決まっている救いなどご免だ。
士郎は、「何をしたって、どんなに生き足掻いたって、死に瀕しながら奇跡のような人間性を見せたって報われることはなく、焼かれ酸素を奪われ死んでいく」というどうしようもない光景を原点としている。
だから彼は、「全てを救うなんて事は、たとえ神様でも叶わない」「誰であろうと、全てを助けるなんて出来なかった」ことを、実感として、体験として己に刻んでいる。
その上で、「けど、イヤだ」と声をあげた。これが彼の造形の根幹です。
だから衛宮士郎のとてつもない無鉄砲は、楽観によるものではない。出来ないものは出来ないのだと言う現実を嫌というほど知っている彼は、むしろ悲観的だと形容した方が適切な人間です。 この点について、ufotableさんのUBWの放映時には、奈須先生から以下のような実況解説がありました。ところで、UBWの奈須先生の実況解説は情報の宝庫。もしご覧になったことがない方はぜひ読まれると吉です。
https://togetter.com/li/731403
頼まれ事は断らない、目に付いた人助けはオートで行う、と言われているものの、彼は“自分にできる事しか引き受けられない”と徹底し、悲観している。このあたり、凛との微妙な、しかし決定的な違いやね。
UBW1話実況解説(https://twitter.com/Fate_SN_Anime/status/520970359428747264)
それでは、その「悲観的な」彼の背を押すのは何なのか、それもここではっきり書かれています。
どんなに不可能でも手を出さなくてはいけない。
Fate/stay night 共通ルート2日目
あの時のように、まわりで見知らぬ誰かが死んでいくのには耐えられない。
彼は何故岩斧の前にとびだせてしまうか、何故UBWで心臓をえぐられるイリヤを見て見ぬ振りをすることができないのか。答えはシンプルです。それが彼にとって、比喩ぬきに体が真っ二つになるより耐え難いことだからだ、と。
そんな彼のありようをして「要するにトラウマ由来の強迫観念じゃないか」「切嗣が7歳児を適切な医療機関にみせなかったから」という感想を持つ方もいるかもしれないし、それも事実の一面でしょう。
ただ、Fateという作品の魅力はやはり、彼の人格の根幹を形成する傷を「傷だから消しましょう」とするのではなく、その傷を抱えて駆け抜けないと辿り着けないところに至った様を、3ルートそれぞれに描き出したところにあるのだと、個人的には思います。
「欠落を埋める」というのは物語の代表的な型の一つ、所謂お約束です。失せ物を見つけたり、奪われたものを取り返したり、傷を癒やしたり。その型に則るなら、士郎はあまりにも大きな傷を抱えていますし、実際Fateルートで言峰綺礼はそれを「癒そうと」しました(やり方は言峰メソッドなわけですが)。
しかし、私がFateに目を見張ったのは、数十時間に及ぶ大作(フルボイスなら100時間でしたか)の中で、 そのお約束に舵を切ることなくただひたすらに、彼の傷と向かい合うという構成が取られていたから。その誠実さにこそ、私は驚きました。このへんの話は、HFの言峰綺礼にも通じるところですが。
うん、だって実のところ、人の心に対して「そのかたちは間違ってるから治してあげましょう」っていうのは、個人的にはロボトミー手術が気持ち悪いのと同じような理由で気持ちが悪いので。
Fateという物語は、「正義の味方」という題目を使うのに、そもそも心の正しさを押し付けるというベクトルを持っていない。この一見矛盾するような構成と、 その矛盾するような構成そのものが「奈須語録『正義の味方』って、あー、これ『ちがう』な?」という情報になっている所を、面白いなぁとずっと思っています。
さて、一連の情報量の膨大な独白は(書いてて『多すぎる!』と悲鳴を上げたくなりました)、以下で締めくくられます。これまた士郎が「現実の見えている」人であることを実に端的に示すセンテンスなので、ここもよく引用されるところです。
だから、もし十年前に今の自分がいたのなら、たとえ無理でも炎の中に飛び込んで――――
Fate/stay night 共通ルート2日目
「そのまま無駄死にしてたろうな、間違いなく」
それは絶対だ。
まったく、我ながら夢がない。
この後は、プロローグでビルの上から凛が士郎を見つけるシーンの士郎視点が描かれて当シーンは了となります。なるほど、こうして見ると「遠坂凛(I)」というだけあって、このシーンは遠坂案件に始まって遠坂目撃で終わっている。